倭姫宮 |
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ヤマトヒメの杜は内宮と外宮をむすぶ御幸道路の
ほぼ中間にある小高い丘=倉田山の森中に建つ。
『神社とは、こうあるべきです~』
内宮での混沌が嘘のようで、静かな杜には我々だけ。
冬緑の静かな参道が気持ち好し。 |
同じ倉田山に建つ神宮徴古館 |
景行天皇は息子:ヲウスの気性の荒さを恐れ、危険伴う西方の討伐を命じた。
父の命に従うことを決めたヲウスは 、叔母で伊勢神宮の斎宮であるヤマトヒメに別れを告げるため神宮を訪ね、ヤマトヒメノの上着や袴を
授かり西に向かったヲウス。 当時、度々ヤマトに抵抗していたクマソタケル兄弟には、ヤマトヒメから授かった衣で女装して近づき、
これを討つ。 クマソタケル(弟)は息絶える際、タケルの名をヲウスに贈り、以後ヲウスはヤマトタケルと名乗るようになる。
西征を果したヤマトタケルがヤマトに凱旋すると、天皇はすぐさま「次は東十二国を討伐せよ」と命じた。
父の仕打ちに傷心のヤマトタケルは、出立前に再びヤマトヒメの元を訪ねる。 ヤマトヒメは今度は、三種の神器のひとつである天叢雲剣と
火打石を授けた。 その援助は焼津で危機が迫ったヤマトタケルを、またも救うこととなる_ |
伊勢神宮の御杖代・創建、神道の確立、そしてヤマトタケルの援助と、多大なる功績のヤマトヒメだが、かつては社がなかったそうだ。
倭姫宮は神官と地元住民の熱望によって大正の時代に創建された宮だ。 |
倭姫宮 |
宮の右隣には、もう一宮建てられる分の敷地が空けられている。
伊勢の神宮は 式年遷宮というシステムを取り入れているからだ。
20年に一度、内宮・外宮、そして別宮の全ての宮と鳥居を建て
替え、収められている神宝や装束もすべて一新する式年遷宮。
その制度が定まったのは千三百年以上の昔と言われ、以来、
ほぼ20年毎に行われてきたた遷宮は、現在にも引き継がれ、
2005年から第62回式年遷宮が進行中だ。
御神体を新しい宮に移す正遷宮は2013年となる。 |
古殿地には祠が祀られている |
式年遷宮の制度が定められた持統天皇の時代には、すでに法隆寺の技術は確立していたのだから、現在まで保つ建物の建設は可能だったハズ。
しかし、あえて20年と定められたサイクルで全てを一新するのは、神道精神である「清浄を永遠に保つ」が根本にあるとされ、それは信仰の
継続にもつながっているようだ。
また、宮作り・神宝の製造・織物の技術伝承も考慮されているとも言われている。
倭姫宮を拝した後に立ち寄った神宮徴古館では、御賜下品の神宝や装束を視ることができた。
『オーパーツに近いのでは?』 最高の材料と最高の技術によって生まれた品々は工芸の粋を超えていた。 |
ほぼ山手線の内側面積と同じ敷地を有する内宮。 そのほとんどは森であり、初期の遷宮時には、その森から材を供給してきた。
しかし一度の遷宮に使われるヒノキは一万本以上となり、14世紀にはついに枯渇してしまう。
源御杣山の再生活動を進めてはいるが、成長に200年かかるヒノキ_ 使用可能となるのは2125年頃とみられ、現在は木曾や中津川の
旧神宮備林が御杣山となっている。 旧宮に使用された材は神宮内や摂社・末社、そして全国の神社の造営にリサイクルされてはいるが…
ちなみに出雲大社の遷宮は60年サイクル。 規模も建て替えでは無く修繕だ。 |
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