09初詣 伊勢神宮~熱田神宮 ヤマトタケル街道 ;楽しきもの
2009/01/30 up    
初詣 伊勢神宮~熱田神宮 ヤマトタケル街道
2009年 1月2日(金)~4日(日)
今年の初詣は、ヤマトタケルにちなんだ史跡を巡りました。
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 伊勢神宮
 第10代崇神天皇の時代まで、皇祖神アマテラスは天皇が住まう宮中に祀られていたが、神威が強すぎるという理由で宮中から離れた笠縫邑にて
皇女トヨスキイリビメノミコトがアマテラスを祀るようになった。 続いて宮外祀を受け継いだヤマトヒメは、アマテラス鎮座の地を求めて
五十年以上諸国を巡った末、ついに伊勢国の五十鈴川の畔に到ると、
アマテラスが【神風の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰する国、方国の美まし国なり。この国におらんと欲ふ】 と望んだ。
 のちの伊勢の神宮は、皇室の氏神から武家や庶民の神、そして国家神道の中心となって行ったのだが、今は日本人の総氏神、全国神社の本宗と
位置づけられている。
 神宮とヤマトタケルの関係を語るならば、神宮は西征・東征の出発点である。
斎宮ヤマトヒメはヤマトタケルの叔母にあたり、出陣前のヤマトタケルに都度アイテムを授ける。
そのアイテムは危機に陥ったヤマトタケルを救ってくれるのだ。      - このページ倭姫宮の項を参考 -
  内宮 (皇大神宮)
 伊勢神宮はアマテラスを祀る内宮(ないくう)とトヨウケを祀る外宮(げくう)を中心に別宮・摂社など合わせて125社の総称だ。
通常は外宮を先に拝る慣わしだが、今回はパークライド~シャトルバス利用のため、混雑具合を読んで内宮から巡る事とした。
シャトルバスは始発から既に満員だが、内宮駐車場に入りたい長い車の列を横目にスムーズに我々を内宮まで運んでくれた。
 しかしバスを降りると、ヒトヒトヒト… 『凄~っ!』駐車場からの入口にあたる宇治橋の辺りでも、予想以上のヒトの多さにびっくりだ。
人々の目的・ポイントはひとつなので、正宮までの流れはスムーズだが周囲は混雑と雑音が混沌としている。
自分が思う神の社(やしろ)とは程遠い状況で、参道の玉砂利さえ埃っぽく思える。 ついに正宮の階段下からは参拝待ちの列ができていた。
前回の遷宮後、解体された外宮の棟持柱をリサイクルしている
内宮外の鳥居
まるで鯉の餌やりのよう
この手水場の状態…
口の禊は、現在は禁止されているそうです
五十鈴川で禊ましょう
 ここからでも、センターで拝もうとしたら一時間以上かかるそうだ。
石段の上に正宮
不謹慎にも“鮭の遡上”を連想してしまった
戦後、宇治橋は宮の式年遷宮の四年前に架け替えられるようになった
俗界と聖界の境にある宇治橋
今回は仮橋も渡れる

 普段でも正宮は幾重もの瑞垣に囲まれていて、絹垣から垣間見るのがやっとなのに、ましてや今回はこの人出_『何を拝みに来たのやら。』
内宮御神体は三種の神器のひとつ八咫鏡とされている。
咫(あた)とは古代の円周の単位の事だそうだ。径一尺の円周が四咫なので八咫鏡は直径約46cmの円鏡となる。
もっとも古代、「八」は数多いとか大きいの意があるので、神器の八咫鏡の寸法には当てはまるかは判らない。

 名で解くなら伊勢も難解だ。 東征をもくろむカムヤマトイハレビコ白肩津ナガスネヒコに敗れ、兄イツセが命を落としたのは
紀伊半島の男之水門。 それにちなんでのイツセ→イセは無理がある?
古事記伝によると、イツセは厳稲(いつしね)と解釈し、やはり穀物や食料の神だそうだ。次は外宮のトヨウケだし、我々も御饌を頂かねば。 
赤福3個と番茶がセットで¥280
赤福でいただくのが一番ね♪
町屋は妻入りの建物ばかり。 神宮と同じ平入り作りは、はばかれる。
江戸情緒なおはらい町通り
オジサンの掛け声に、思わず買いそうになる
サンマのめざし
一串10尾ぐらいで¥500『安い~』
ほかほかで美味しかったデス
伊勢と言えば松坂牛
ステーキは無理なので、
松坂牛のしぐれが入った福まん
 正月のおはらい町通りはジャンクフードパラダイス! 通常店舗以外に露天が通り両側に立ち並び、買い食いばかりでナカナカ進みません。。
江戸時代、おかげ参り後の精進落としや、故郷への土産を購入する場として内宮の門前町として栄えたおはらい町通り。
駐車場が宇治橋前に作られてしまった為、一時は衰退していたが、現在は見事な町おこしよって活気を取り戻している。
伊勢海老鉾
『尾張名古屋は海老で持つ』
でしたっけ!?
『エビはどこ?』
伊勢エビコロッケ
みたらし団子屋さん
情緒ある窓枠
酒屋さんの軒上に酔いどれ猿
和歌山の伝統工芸品に“瓦猿”があるが_

  月讀宮
 内宮から外宮までは約5km。 『ここは歩きましょう』と御幸道路を行き、途中のツクヨミを拝する。
住宅地が真近とは思えない深い森の中に、月讀とその荒神面を祀る月讀荒御魂、そして日本列島創造の伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮と、
四柱の宮が白玉石の上に並列に並んでいる。 参拝者は少なく、ほっと一息だ。
長い鍵が必要な訳が解りました
伊勢;月讀宮
 伊勢の正宮は全て神明造り平入りだ。
出雲の本殿の多くは大社造り妻入りだった。
 個人的見解だが、同じ心御柱を持つ建築様式でも、出雲の社は
曲線を持つ屋根と、高柱によって持ち上げられている効果で
『ここに神が住まう』とした威厳があるが、伊勢の宮は、
その大半を瑞垣で隠してしまい、観える屋根も平面・直線的な
構成なので、良く言えば『無駄のない清らかさ』、悪く取れば
『形式的な』モノに感じる。
2008年8月に出雲へ
出雲;神魂神社
 日本神話の三貴神と呼ばれるアマテラス・ツクヨミ・スサノヲの祀り方も伊勢と出雲では異なるようだ。
元々、記紀神話では影が薄いツクヨミ。 伊勢の祀りの中心はアマテラスであるが、ツクヨミもしっかりと祀っている。
かたや出雲ではスサノヲ~オオクニヌシが中心ではあるが、アマテラスも祀られていた。しかし、ツクヨミはオマケ程度にしか祀られていない
 ~伊勢にスサノヲは不在で、出雲ではツクヨミは祀らない~ 『このWトライアングルは、何を意味するのだろう?』
そんなコトを思いながら歩き視た伊勢の家々の玄関 正月飾りは、牛頭天王の“蘇民將來”の御札ばかりだった。

  倭姫宮
倭姫の杜
ヤマトヒメの杜は内宮と外宮をむすぶ御幸道路の
ほぼ中間にある小高い丘=倉田山の森中に建つ。
『神社とは、こうあるべきです~』
内宮での混沌が嘘のようで、静かな杜には我々だけ。
冬緑の静かな参道が気持ち好し。
ルネッサンスな建物
同じ倉田山に建つ神宮徴古館
 景行天皇は息子:ヲウスの気性の荒さを恐れ、危険伴う西方の討伐を命じた。
父の命に従うことを決めたヲウスは 、叔母で伊勢神宮の斎宮であるヤマトヒメに別れを告げるため神宮を訪ね、ヤマトヒメノの上着や袴を
授かり西に向かったヲウス。 当時、度々ヤマトに抵抗していたクマソタケル兄弟には、ヤマトヒメから授かった衣で女装して近づき、
これを討つ。 クマソタケル(弟)は息絶える際、タケルの名をヲウスに贈り、以後ヲウスはヤマトタケルと名乗るようになる。
 西征を果したヤマトタケルがヤマトに凱旋すると、天皇はすぐさま「次は東十二国を討伐せよ」と命じた。
父の仕打ちに傷心のヤマトタケルは、出立前に再びヤマトヒメの元を訪ねる。 ヤマトヒメは今度は、三種の神器のひとつである天叢雲剣
火打石を授けた。 その援助は焼津で危機が迫ったヤマトタケルを、またも救うこととなる_
 伊勢神宮の御杖代・創建、神道の確立、そしてヤマトタケルの援助と、多大なる功績のヤマトヒメだが、かつては社がなかったそうだ。
倭姫宮は神官と地元住民の熱望によって大正の時代に創建された宮だ。
とてもいい場所でした
倭姫宮
 宮の右隣には、もう一宮建てられる分の敷地が空けられている。
伊勢の神宮は 式年遷宮というシステムを取り入れているからだ。
20年に一度、内宮・外宮、そして別宮の全ての宮と鳥居を建て
替え、収められている神宝や装束もすべて一新する式年遷宮。
その制度が定まったのは千三百年以上の昔と言われ、以来、
ほぼ20年毎に行われてきたた遷宮は、現在にも引き継がれ、
2005年から第62回式年遷宮が進行中だ。
御神体を新しい宮に移す正遷宮は2013年となる。
次はこっち
古殿地には祠が祀られている
 式年遷宮の制度が定められた持統天皇の時代には、すでに法隆寺の技術は確立していたのだから、現在まで保つ建物の建設は可能だったハズ。
しかし、あえて20年と定められたサイクルで全てを一新するのは、神道精神である「清浄を永遠に保つ」が根本にあるとされ、それは信仰の
継続にもつながっているようだ。
また、宮作り・神宝の製造・織物の技術伝承も考慮されているとも言われている。
倭姫宮を拝した後に立ち寄った神宮徴古館では、御賜下品の神宝や装束を視ることができた。
オーパーツに近いのでは?』 最高の材料と最高の技術によって生まれた品々は工芸の粋を超えていた。
 ほぼ山手線の内側面積と同じ敷地を有する内宮。 そのほとんどは森であり、初期の遷宮時には、その森から材を供給してきた。
しかし一度の遷宮に使われるヒノキは一万本以上となり、14世紀にはついに枯渇してしまう。
御杣山の再生活動を進めてはいるが、成長に200年かかるヒノキ_ 使用可能となるのは2125年頃とみられ、現在は木曾や中津川の
旧神宮備林が御杣山となっている。 旧宮に使用された材は神宮内や摂社・末社、そして全国の神社の造営にリサイクルされてはいるが…
ちなみに出雲大社の遷宮は60年サイクル。 規模も建て替えでは無く修繕だ。
出雲大社の遷宮の様子 楽しきもの 08出雲大社 特別拝観

  外宮(豊受大神宮)
 別宮・摂社など合わせて125社の伊勢神宮だが、あくまで内宮;アマテラスが絶対的な中心で、他124社は、極端に言えば“ついで”だ。
その“ついで”の中で、トヨウケは別格の待遇を得ている。
伊勢神宮外宮の社伝によると、雄略天皇の夢枕にアマテラスが現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の
比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と命じたのが始りとされる。
外宮:トヨウケは、内宮:アマテラスの食事係として此処に居るのだ。
 先に記したように、通常は伊勢の両宮を回る際には「外宮先祭」とされ、外宮→内宮と巡るのが慣わしだ。
格下から取り次ぐマナー? 実はトヨウケは創造主? など言われるが、理由は「慣わしだから」としか伝わっていない。
まぁ、『太陽が無ければ稲は育たないが、太陽だけが存在してもヒトは生きて行けない。』とでも言っておきましょうか。
千二百年間 毎朝夕 ご苦労なこって
内宮より、はるかに空いている
『海や山で好い風を!』
別宮 風宮
祀神はシナツヒコ
雨で冷えた身体を暖めてくれた
我らのトヨウケ=伊勢うどん 中むら
多茹のぶよぶよ麺をぶっかけで頂く
 今年の三が日、伊勢神宮の人出は約四十万人だったそうだ。 比率は内宮(75%)・外宮(25%)で圧倒的に内宮の参拝客が多いらしい。
今回、公の指示にしたがってパークアイランド~シャトルバスで伊勢に入った。
たしかに内宮へ入る駐車場は長い列を成していた でも、外宮周辺の道路は普通に車が走れ、駐車場にも空きがあった。
内・外宮間はバスもあるので、外宮に車を停めて内宮はバス or 歩きで往復するのがいいカモ。(1月2日だったからかもしれないケド)
予定では二見や斎宮も巡る予定だったが、人酔い気味で疲れた。 今日はもう宿に入りましょう。

 亀山関宿
PCは自分の物を 今回の一泊目は亀山カンデオホテルズ
ビジネスにもレジャーにも使える新しいスタイルのホテルだ。
亀山のホテルはまだ新しく、ブロードバンド完備(無料)
液晶TV(もちろんAQUOS)、コスメなど充実の設備だ。
そしてなによりも、硬めのシモンズベッドの寝心地と
大浴場展望露天風呂がとても好かった。
日ノ出を眺めながらの朝風呂
好い町並みです。
宿場の情景を多々残す町並み
チエックアウト後、東海道関宿に立ち寄る。 正月&早朝ということで、静まり返ってはいるが、
大変栄えた宿場だった様がよく判る。 機会があれば、また訪れたい場所だ。
旅籠玉屋 歴史資料館だそうです
漆喰レリーフの火焔宝珠
志ら玉は勾玉を模した菓子だそうだ。 残るは剣ね!
お目当てはこれ! 志ら玉
お店は正月休みだったが、道の駅でGETです

 能褒野御墓
 『あんなに積もるんだ~』予想以上に雪景色の鈴鹿山脈を眺めながら能褒野(のぼの)を目指す。
広がる水田地帯の中、浮島のようなヤマトタケルの墓が見えてきた。

こじんまりとしていて
静かで落ち着いた杜でした
丁子の葉? なんのイメージだろう
社紋は現代的デザインだ
 まずは 能褒野神社へ。
この神社は明治時代に創建された新しい神社だそうだ。
かつては丁子塚と呼ばれていた長さ90mほどの前方後円墳で、
中世の戦乱で陵墓の位置が不明になってしまっていたため、
明治21年に宮内庁が此処を日本武尊能褒野陵と定めた。
 参道を歩いていると、
 鈴のさがる拝殿 思いのほか拝する人が多いが、田舎の
鎮守ノ杜風で、のんびりとした時間がすごせる。
 主祀神はもちろんヤマトタケルだが、東征の際、走水で命を呈して
ヤマトタケルを救ったオトタチバナヒメも配祀されている。
 ほぼ東征を終えたヤマトタケルだが、近江の伊吹山で神の怒りをかって致命傷を受けてしまう。
傷つきながらも現在の三重県桑名にたどり着いたヤマトタケルは、
「足が餅のようにぐにゃぐにゃで、三重に折った様だ。」と嘆き、ついに能褒野で動けなくなった
【倭は国のまほろば たたなずく青垣 山隠れる 倭うるわし】と故郷を想うが、ついに息絶えてしまう。
神社で、墳墓の前で彼女は笛を吹く
今でも宮内庁管理
注) ヤマトタケルの陵墓と伝わるのは、他にも鈴鹿市加佐登の白鳥塚や大阪府羽曳野市白鳥、
  奈良県御所市 等があげられます。
ヤマトタケルに致命傷を与えた伊吹山の様子 山のもの 07伊吹山 

 椿大神社(つばきおおかみやしろ)
 飛び去った白鳥のように白い峰を垣間見せる鈴鹿山脈。 その山裾を沿うように次の目的地へ車を走らせる。
鈴鹿ICを超え、茶畑が広がりだしたとたん、またも長い車。
『おそらく普段は参拝者もさほど多くないであろうに。』車が動かなくなった場所から神社まで、まだ2kmぐらあるか_
名古屋人は車好きだが、我々は関東からの旅人だ。 『いくら交通安全の神とはいえ…』 さっさっと車を町の臨時駐車場に入れ、
サルタヒコの杜に向って歩きはじめた。
獅子堂前の大樹
龍鱗の杉
『はぁ~』  
別宮の椿岸神社はサルタヒコの妻
アマノウズメの社
 太古の時代は、背後にそびえる高山入道嶽、短山椿ケ嶽を天然の社としていたという椿大神社。
殿は伊勢の神宮と同じ神明造りだが、付随する建物があるので背後の山に負けない重厚感がある。しかし、その殿を押し倒す勢いのヒトの列
   『ここまでも…』
 祀神はサルタヒコ 天祖降臨を導き、伊勢の海で悲運の最後をむかえる神だ。
記紀においてサルタヒコは神代の八百万の神の一柱であり、ヤマトタケルは天皇の正当性を立証する半神半人の立場の為、接点は無い。
しかし権力に利用されて悲運の末路をたどる点、うらはらに判官びいきの民に好まれるトコロは、よく似ていると思う。
椿大神社は、アメリカワシントン州にシアトル分社があるそうです。
今日も露天で買い食い  『これがほんとうの鬼饅頭よ!』と彼女が喜ぶ。
 関東でも時々鬼饅頭を売っているが、食べてみると
 『芋入り蒸しぱん』でがっかりするそうだ。
 “ほんとうの鬼饅頭”をがぶり。
たしかに生地がネチネチしていて、なんとも駄菓子的な旨さだ。
陶です
自分は蛙を衝動買い→ 
“Made in Vietnam”のようだが 可愛いからOK   
 “椿大神社” 神ノ名や地名ではなく、花の名”を冠した洒落た名だ。
由来は境内に椿が多いからとも、仁徳天皇夢に見た椿からとも伝わる。
椿大神社は伊勢国の一宮であり、創始はヤマトヒメの神託だったとされ、倭姫命世記によれば、
伊勢神宮の敷地もサルタヒコの子孫が、ヤマトヒメに五十鈴川の川上一帯を献上したと記されている。
 ヤマトタケル・ヤマトヒメ・サルタヒコ など数々の神話史跡が残る紀伊半島北東沿岸。
ヤマトから見れば、日出ル地だ。 すべてを神話の戯言とは言いきれまいて。

 湯の山温泉
 ますます登りたくなる白い御在所岳がどんどん近づいてくる。
『凍結したらチェーンが不可欠』 そんな急坂が現れてくると湯の山温泉だ。
谷あいの険しい地形にある温泉街は、一軒一軒が上下方向に離れ、大型のホテルが建てられない
敷地なので、懐かしい温泉街の情緒が良く残っている。
 さすがに三が日なので、日帰りで浸かれる温泉は少ない。
湯の山温泉最奥の三峯園へと更に標高をあげた。 辺りは本格的な雪景色に変わってくる。
湯の山温泉の別名は鹿の湯
アルカリ性ラジウム泉
『極楽~』トロトロの湯質、抜群のロケーション
 しかも三が日なのに貸切!

湯船から見上げられる,御_  在する所

ほんとうのとろろ
 湯の山の名産は自然薯だそうだ。 里に降りて自然薯 茶々で味わう。
出されたるは、大きなどんぶりに泡立つジネンジョ(ヤマノイモ)。
粘りが強く 味に深いコクがあって、スーパーで売っているヤマイモやナガイモとは格違いの美味しさでした。

 名古屋CITY
ミッドランドスクエアから
JRセントラルタワーズ
コメダ 多摩川を越える! 下丸子店があるそうです
モーニングはコメダ
シロノワールと小倉トースト
今日の宿は名古屋の街
経済不況で蔭りがさしたとはいえ、
一発豪華好きの名古屋人
東京に比べれば活気があるように思えた


 熱田神宮
 現在、三種の神器のひとつ草薙剣が祀られている熱田神社は、大都市名古屋の繁華街に隣接_いや、その中にある。
ヤマトタケルは神剣を妃ミヤズヒメの元に置いたまま能褒野(のぼの)で没した。 ミヤズヒメは神剣を熱田の地に祀った。
やはり渋滞気味の熱田神宮周辺だが、運良く近隣の駐車場に車を入れられた。
大楠にすむ龍神さま
『神蛇が棲む』
屋根も銅葺
熱田神宮の宮も 伊勢の本宮と神明造り平入りだが、
拝殿がある分、熱田の方が大きく見える
文が焼印だったら好いのに~
お土産に文福饅頭
さっぱりした甘さで美味しい
 上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)

上知我麻神社
熱田神宮の杜内に建つ上知我麻神社は、
元は現在の名古屋駅近くにあったそうだ
ヤマトタケルがやってくる前、尾張を支配していた
ミヤズヒメの父親~一族が祀られている。
この熱田の杜も元は彼らの聖域だったのかもしれない。
しかし御時世、現在は右左に配する、恵比寿さまや
大黒さまへ商売繁盛祈願を願う方々が多いようだ。

別宮・八剣宮
上知我麻神社の横に熱田神宮 別宮・八剣宮が建つ。
元明天皇が命じて作らせた剣が祀られている。
祀られたのは和銅元年(708)
秩父の銅を祀ったのだろうか?
 熱田神宮側のあつた蓬莱軒が今日のトヨウケだ。
ひつまぶしの大人気店ということで、一時間待ち。 熱田神宮の宝物館などで時間をつぶす。
 (時間を指定してくれるので、予約してから参拝した方が良かったようデス)
指定された時間に店前に行くと、さらに人が増えて店前で溢れていた。
 『いただきま~す』腹開きで、蒸していない関西風の鰻を かなりの濃タレで頂く。
『う~ん☆パリパリ感が美味しい』 蒸していないが、小振りの鰻を使っているのでサッパリとしている
ひつまぶしなので、うな茶漬けでもいただけるのだが、自分らは鰻丼としていただく方が好みでした。
次回は雰囲気が好い本店で味わってみたい。
熱田神宮の杜は大都会名古屋の街においては広大な杜で、以前は蓬莱島と呼ばれていたそうだ。
 氷上姉子神社
 能褒野(のぼの)で詠われたヤマトタケルの辞世 【嬢子の床のべに わが置きし剣の太刀 その太刀はや】
                             ~草薙剣を妃ミヤズヒメの元に置いてきた事を悔む歌だ。
今回のヤマトタケル街道の終りは、その草薙剣を置きっぱなしにしたミヤズヒメの宮だ。 そこは現在、氷上姉子神社として祀られている。
 ヤマトヒメがアマテラスとの御幸の際、一時的に祀った場所を元伊勢と呼ぶように、一時的に草薙剣を祀っていた此処は元熱田とも呼ばれる。
現在は熱田神宮の境外社殿だが、熱田神宮から南に車で有に30分以上かかる場所。 この辺りが古代尾張一族の里だったのだろう。
重厚~寺っぽい
尾張造りの本殿
元宮神明社へはハイキング気分
大御葬歌は吹けないケド
元宮神明社で
 ヤマトタケルがここに立ち寄った時代、この地は火高火上(ほだかひかみ)と呼ばれ延喜式にも火上姉子神社と記されている。
しかし後にこの地域に火災が度々起き、1382年には神社が被害を受けた事から、火高を大高に、火上を氷上と改めたと伝わる。
「姉子」とは「夫のない乙女」の意で、ミヤズヒメを示す。 神社名は氷上のままだが、現在の地図を見ると、地区名は火高山に戻っている。
 ハイウェーのようなR23号線 『曲り口がワカラナイ』 さらに駐車場が見つからず、山の下に車を停めて歩いたが、
なんてことは無い、鳥居をくぐった先、本殿の前が広い駐車場だった。
 本殿は銅葺屋根で小ぶりだが、重厚な作りでで今回観てきた伊勢の宮とは一線を画す。
本社である熱田神宮は、現在は伊勢の宮と同じ神明造りだが、明治の時代までは尾張造りの社だったそうだ。
現在の氷上姉子神社の殿は、その建て替え前の熱田神宮の別宮・八剣宮本殿を移築したものだ。
 神社の向かいの山を登ってみると、頂上は何も無い広場。 古代、ここにミヤズヒメの宮が建っていた。
ヤマトタケルは東征の最初に尾張の国に入り、ミヤズヒメと契りの約束をして東に向った。 そして約束通りに東征の帰路、此処に立ち寄り
ヤズヒメを妻とした。 が、ヤマトタケルは草薙剣をここに置いたまま伊吹山に向かい、二度と戻らなかった。
そう、ミヤズヒメはヤマトタケルと二回しか会っていない_ どことなく悲しい姫に思えた。
  三種の神器、残りは八尺瓊勾玉 現在は東京;皇居に鎮座している(らしい)。  我々は東へ車を走らせる。


感想
現在、日本人の多くが 神社には詣でるのは「初詣や七五三といったイベント時だけ」といった風だ。
自分たちは、普段から割と神社に行くので、こんなに人が多いとビックリだ。
ヤマトタケルの逸話が史実か否か? ヤマトタケルは一人だったのか、軍団だったのか?
さらには三種の神器や伊勢の秘密_
それらは何層もの歴史が積み重なり、私の知識ではとても判断できない。
関西地方全般に言えることなのだが、伊勢の人々も神社や神さまを”さん”付けで、親近感をもって呼んでいる。
関東の人間より遥かに生活の近くにあり、関わりも多いからなのであろう。
そんな人々が作りあげてきたモノだ。

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