09足利・佐野 ぶらり ;楽しきもの
2009/12/17 up
足利・佐野 ぶらり
2009.07/25-26
法事で足利へ 合間に足利・佐野をぶらぶらしました
 鑁阿寺(ばんなじ)の正式な寺号は “金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺” と言うそうだ。
しかし、幼かった自分にとっては『大日さま』だった。
ここは足利氏の発祥・住居跡で、12世紀に八幡太郎の孫、足利(源)義康が居館を築いたのが始まりだ。
後に源姓足利氏は、政事を公家から武家へと動かした天下人;足利尊氏へ繋がり、鑁阿寺は足利氏の氏寺として祀られた。
このアングルが好きです
今でも四方をお堀と土塁がめぐっている
スケッチもいいですね
太鼓橋を渡り楼門をくぐる 関東の小京都
色づく頃は、見事です
樹齢550年の大イチョウ
早朝のため静かな境内を楽しめる。
銀色に輝く傾斜の急な大屋根の本堂で、鐘を鳴らし拝す。
立派な鐘楼や多宝塔を観る。
彼女が笛を吹くと、社務所の方から
お褒めの言葉を頂けました。
大日さまでは毎年、薪能・狂言が開催される。
今年は野村万作も舞うそうだ。

幼かった頃、この境内で鳩に餌をやるのが好きだった。
今は鳥害が云われてしまうのでしょうか

 その足で隣の足利学校へ 平成となって綺麗に整備された足利学校は初めてだ。
日本最初の学校:足利学校は、平安時代に小野篁が開いたとも、足利義康の子、義兼が創設したともと言われている。
その名はフランシスコ・ザビエルや、ジャン・クラッセらの宣教師により、「もっとも有名な坂東の大学」として西欧諸国に報告された。 明治になり、学校としての歴史は終わったが、今やフラワーパークと並ぶ足利の観光スポットだ。
 ここも朝一のため、他に観光客はいない
現存の建物は江戸中期の状態を平成の世に再現した建物 学校ということもあって外観は素気ない。
雨上がりで映える緑の庭
 建物内に展示されている天文図を視る。
足利学校では、歴史が明確になる室町時代中期以後、儒学を学んでいたそうです。
関東管領 上杉憲実儒学五経典のうち、詩経書経礼経春秋経を、息子の憲忠が
残りの易経;周易注疏を寄進し、学びの礎を作ったそうです。
当時、特に易を学ぶ者は学徒三千と言われるほど多く、事実上の日本の最高学府であった。
江戸時代になっても庠主(しょうしゅ)は将軍の1年間の運勢を占い献上したそうです。
今でも正門正面は孔子廟 毎年11月23日には釋奠(せきてん)が行われる。
元版は中国南宋時代の天文図だそうです
天文図(拓本)
ウエットとドライで雰囲気UP!
孔子像の足元に双龍のレリーフ
現役の図書館として使われています
和様折衷 モダンレトロの遺蹟図書館

かつて知ったる町を歩いていると『あれれ?』
共益会館が無い! もう一度見直すと更地になっている。
地元の知人に聞くと、2009年6月に取り壊されてしまったそうです。
跡地はコミニティー施設や公園になるらしい
。。
在りし日の足利の繁栄を残す好い建物だっただけに、ちょっと残念です。
1927年(昭和2年)竣工
ありし日の共益会館
足利のモダンレトロな建物の紹介

青竹打ちの平麺が佐野ラーメンの特徴 今日の宿泊は佐野
昼間はアウトレットを覗き、
夜は佐野ラーメンを食べる。
ラーメンマップを見ながら、
ノスタルジックな“ふくや”へ
ラーメンは『まぁまぁ』でも、餃子は
思わず声が出るほど『めちゃ旨!』
かなりHit!

翌日、再び足利へ
岡田屋のパンジュウの屋台が無い。 売り切れちゃったのかな(涙)
周囲138m 深さ約1m 水温は年間を通して16-17度で一定 遊びに来ていた子供に、すっかり気に入られてしまった・・・
気を取り直して、佐野の知人から勧められた出流原弁天池へ向かう。
出流原(いずるはら)は、関東平野の終わり・日光の山々の始まりの場所。
池の直ぐ側までは俗っぽく温泉宿が建っているが、池の畔に立つと雰囲気が一転『ここは神聖な場所』になる。
水面にはアオイソラと周囲の木々が鏡のように写りこむ。 純水晶のようにクリアー水なので、泳ぐ鯉が空を悠々舞っているようだ。 彼女が笛を吹くと、一段と幽玄な雰囲気に包まれ『この鯉が龍に変化しそう』デス。
どうやら、この神聖な湧水が佐野ラーメンの旨さの秘密のようだ。 次回は弁天様の白蛇に会いに来るとしましょう。

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