08明治神宮 春の大祭 舞楽;楽しきもの
2008/07/14 up    
明治神宮 春の大祭 舞楽
2008年 4月29日(火)
昨年秋の宮中雅楽に続いて、今回は明治神宮で雅楽を鑑賞しました
枠 は、クリック→ポップアップ画面で拡大します
毎年、明治神宮では春と秋の大祭に合わせて雅楽が奉納される。
舞台は御社殿前の野外に据えられるので、舞楽本来の姿で鑑賞できる。
宮中雅楽の様子は 楽しきもの 07宮内庁式部職楽部 秋季雅楽演奏会            

 明治神宮雅楽
『明治神宮、広し』 知ってはいても、原宿駅を降り立ったのがすでに開演の5分前
JR原宿駅から、砂利敷の参道を穢れを巻き上げ急ぐが、すでに管の音が聞こえてくる。
南神門をくぐると、すでに大勢の方々が舞台に見入っていて、好い場所は既にカメラおじさんが陣取っていた。
御社殿側から特設の高舞台を見下ろ位置に潜り込み、鑑賞する。
 『天子の場所ね 』 そう思う頃には、すでに演目一つめの振鉾 二節は終わっていた。
輪台 舞楽なので、管方は南側高舞台下に座して演奏する
揃いの紅衣に甲の装束で、四人がゆったりと舞う姿は、なんとも優雅だ。
手を広げ、袖が四ツの弧を描く時には、まるで袖が楽器のように思えた。
納曽利
源氏物語にも書かれる納曽利は、
平安時代には、左方 / 陵王番舞として、相撲や武技の
勝者を讃える舞楽だったそうです。
雅楽としてはリズミカルで早い音に合わせ、二人の舞人が
時には向かい合い、時には背合せで同じ動きで踊る様は、
伝え通り 雄雌の龍が楽しげに遊ぶ姿でした。
雄雌の龍が楽しげに遊ぶ舞う  
長慶子の調べで、本日の舞楽は静かに引いてゆく 
 『野外の舞楽は素敵です!』
視界には神宮の殿や門が入るため、奉納という言葉がぴったりだし、東京のど真ん中とは言え、明治神宮は広大な杜なので、
新緑や霞気味の晴空と、自然に囲まれていて、のびやかで季節感がある。
管も野外の方が、変な反響が無く 『すぅーっと』 通るように感じました。

 火焔太鼓 鼉太鼓
 常設の雅楽舞台では無いので、雅楽演奏が終わると、すぐに舞台撤収がはじまる。
宮中雅楽演奏会で強くひきつけられた、巨大な火焔の太鼓が分解されて行く様は興味深い。
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これは宮中楽部の舞台

右隣が大鉦鼓
火焔太鼓 部分名称
室外の為、簡易の架台に置かれている
 火焔太鼓は、雅楽的には鼉太鼓(だだいこ) -大太鼓とも- と呼ばれ、雅楽舞台の
後方の左右袖に一対配置される。
構造的には、右方も左方も同じサイズで、全高サ約6mと、この広い明治神宮御社殿境内に
おいても、巨大なモノであることはよく判る。
が、楽器としての鼓面は直径2m弱、厚さは1mほど。 これはこれで大きいのだが、
全体からすれば小さなものだ。
だれもが目をひかれる火焔の装飾は、雲象板と呼ばれ 太鼓胴の周囲を、その倍近いサイズで
取り巻き、雲象板の先端からは1mほどの長い棹が立ち、頂には光輪の装飾が取り付けてある。
雲象板は天地方向に二分割できる仕組みで、太鼓部を挟み留め、火焔上部の前後の
三弁宝珠が貫となっている。
 楽器としての構造は、前後の鼓面を紐で結び、張力を与えている締太鼓である
すなわち、雲象板も光輪も、まったくの 「飾り」 で音響的には意味を持たない。
 今回鑑賞した舞楽と、楽器合奏だけの管絃を合わせて“大陸系雅楽”と呼ぶ
火焔太鼓は、その内の舞楽だけで演奏され、且つ左舞では左方の火焔太鼓だけを
叩き、右舞時は右方の火焔太鼓だけを用いる
音の調律や、演奏の方法に左方・右方の差は無く、火焔太鼓が設置できない狭い室内では、
舞楽においても、楽太鼓で代用することも可能だ。
楽器としての役割は、雅楽の舞台で一番目立つモノなのに、ソロで乱打したり、リズムを
刻むパーカッションでも無く、拍子図・百と鳴すだけで控えめだ。
雅楽において太鼓は、洋楽のようにリズムを保つのではなく、曲全体の周期を定め
告げる楽器だそうだ。
 おそらく管絃だけの演奏会であっても、室外で行われる神聖な雅楽には火焔太鼓を
置くのであろう。 ここまでくると、楽器というよりも舞台装置としての役割を強く感じてしまう。
火焔太鼓は日本固有の楽器(舞台装置)で、雅楽の祖となった大陸には、このように
大きく、絢爛豪華な装飾を施された太鼓は存在しなかったそうだ。

では、なぜ火焔の装飾? なぜ巨大? なぜ右左一対が必要? なのだろう
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左方火焔太鼓
装飾の龍も対で “阿吽”
締太鼓
左方火焔太鼓 調緒
胴にも龍が描かれている

右方火焔太鼓
装飾は鳳凰
 火焔太鼓がいつ頃から登場したかは、まったく不明であるが、その巨大さ・火焔の装飾は、日本仏教の影響が大きいようだ。
雅楽の楽が日本で初めて演奏されてのは、允恭天皇崩御の際に行われた哀悼歌舞とされている。
以降、渡来人や遣唐使達が次々と外来音楽を日本に持ち込むのであるが、元々の唐や高麗の楽は、仏教と関係は無かった。
しかし知識や仏教と楽は、同時期・同じ人々の手をへて 「大陸からのモノ」 として一緒くた日本に伝わり、 やがて奈良時代に行われた
東大寺大仏開眼会によって、日本の雅楽は確実に仏教と結びついた。
 その後、神社仏閣において奉納されるコトとなった雅楽は、社や寺にとっては、帝や民に霊験や威厳を示す重要なイベントとなってゆく。
次々に新しい宗派・教えが伝わり、他との競争が生まれれば  「当方の教えは、こんなに有難いゾ!」 と誇示する必要が出てくる。
日本の仏教において霊験や威厳は、大仏建造が示すように、大きくすることがセオリーのようで、雅楽の楽器で巨大化可能な楽器は
太鼓と鉦鼓(これもあまり大きくすると音が目立ちすぎるが…)だったのであろう。
 また、火焔の意匠は 仏教において仏の教えの象徴と言われる如意宝珠を模したものであろう。
如意宝珠の原型は、仏教の前身である古代インド瞑想時代より、「あらたかなモノ」 として存在していたので、
『どの仏教宗派でも受け入れることができた』 のではないかと思う。
管の調べや舞を、一層「ありがたいモノ」にするため、火焔太鼓は大きく、そして絢爛豪華なっていったのであろう。。
    『火焔太鼓が、なぜ左右一対なのか?』 の前に、左方・右方の外観と演奏や舞装束の違いを簡単にまとめると、
火焔太鼓 外観の違い 演奏において
太鼓面・主紋 太鼓面・剣先文 装飾 光輪 管絃 左舞(唐楽) 右舞(高麗楽)
左方 三巴・左巻 中心線がある剣先文が
連続した放射状
金・日輪 演奏せず 演奏 演奏せず
右方 二巴・右巻 中心線が無い剣先文が
断続した放射状
鳳凰 銀・ 月輪 演奏せず 演奏せず 演奏
赤系 青系
舞 装束色
 平安時代、帝や皇族の行動を支配するのは陰陽五行だった。 京の都も左京・右京、政事も左大臣・右大臣と二極分類する入れ込みぶり。
そんな時代のさなか、仁明天皇は 後世「楽制改革」と呼ばれる“日本雅楽”の確立を指示し、その過程において雅楽は陰陽道と融合した。
日本人は、古来より外から新しいモノが伝わると、それまであったモノを一掃するのではなく、古いものに取り込み融合させてきた。
モノは知識であれ、楽であれ融合だ。。
左方の火焔太鼓は陽であり、右方は陰。  陰陽対であるため、左右の細部は相反対極でありながら、全体は陰陽対;ふたつでひとつなのだ。
火焔太鼓だけではなく、陰陽化は雅楽全体になされ 演奏も舞も装束も、すべて陰陽対にまとめられたのだ
Please click ! 左方 大鉦鼓も昇龍の意匠  ← 大鉦鼓(火焔鉦鼓)
  火焔太鼓と同様に、火焔の意匠、
  左方・右方で陰陽対、やはり舞楽で用いられる。
  大きさは上記;部分名称の図を参考
参考文献 ; 宇宙を叩く / 杉浦康平             
図説 雅楽入門事典 / 柏書房         
-宮内庁式部職楽部の火焔太鼓を参考に記す- 

 明治神宮
 雅楽奉納が終了し、高舞台も火焔太鼓早々と撤収され、いつもの休日の明治神宮の姿に戻った。
改めて御社殿の正門である南神門や御社殿を見回すと、凝った意匠が随所に視られる。
ハートがいっぱい こちらは、スペード? クラブ? Please click !
皇室は五七の桐
明治神宮の神社紋;五三の桐

同;十二弁菊
明治神宮は、現人神の時代に
造営された、割と新しい神社なので
惜しげもなく良材と手間をかけている。
明治神宮創建時からの物なのだろう ← この金具は御社殿の扉の物で、
   こちらは十六弁菊。
   明治神宮創建時は、神社紋は皇室と同じ
   十六弁菊・五七の桐だったが、昭和40年に
   明治神宮独自の紋;十二弁菊・五三の桐に
   変更したそうです。
   そのために新旧の菊と桐が混在している。
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玉垣


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